Yさん
私は2000年に全身性エリテマトーデス(SLE)を発病し、2008年に肺高血圧症(PAH)を発症しました。SLEは発病時にステロイドによる治療をして以降、病状は落ち着いていたので、普通の人と同じように生活し、会社員として働いていました。そんな時、通勤や外出の際、駅や途中のベンチで休みをとるくらいに疲れやすさを感じるようになりました。最初はSLEが悪化したのだと思い、かかりつけ医を受診したところ、すぐに入院するように言われました。検査の結果、PAHと診断され、都内の大学病院に転院を勧められました。自分でPAHについて調べていると、生存率などばかりが気になってしまい、「死ぬかもしれない」という思いに呆然としました。そんな私の不安を和らげてくれたのは、転院後の肺高血圧症専門外来でした。その先生は、私の病気の状態、今後の治療について丁寧に説明してくださいました。また、先生に勧められて参加した患者会で、同じ病気の方々とお話をするようになって、自分の病気を徐々に受け入れることができました。
現在は、3種類のPH治療薬を服用して治療をしながら、以前と変わらず仕事を続けています。発病当時は敬遠していた趣味の旅行もできるようになり、昨年は海外旅行にも行くことができました。10数時間のフライト中は酸素を吸入しましたが、特に体調に問題なく旅を楽しむことができました。NWさん
私が発症したのは数年前で、まだネットなどでの情報が悲観的なものが多数を占めている時期でした。
助からないかも(T ^ T)、と悲観に暮れながらも専門家の先生や、活発に活動されている患者さんがいることを知り、患者会に参加してみました。すると、、
K.Mさん
こんにちは。
発見が遅れた為、私の病気はかなり進行していました。全然歩けないし、咳は出るし、碌な治療法もないみたい。「もう余り生きられないなぁ」と思って、ひとり死に支度をしていたのを覚えています。M.Nさん
私は、9歳の時に膠原病の全身性エリテマトーデス(SEL)を発病し、19歳で合併症として肺高血圧症を発症しました。SELに関しては、約一年間入院をしていたこともあり、幼いながらも病気と向き合うことができました。しかし、肺高血圧症の時は、声帯の手術をする際の術前検査で見つかり、あまりに急なこと、今まで普通に生活していたのに…とでかなりのショックを受けました。そのため、肺高血圧症という病気を受け入れるまでには、大変時間もかかり、苦労もしました。
リスクが高いから危険と言われながらも声帯の手術を行なったり、家族にはわがままを言って迷惑ばかりかけていました。そして、心臓カテーテルのため、わけもわからず入院した時に、たくさんの人との出会いによって、徐々に現実を受け入れられるようになりました。Y.Kさん
慢性血栓塞栓性肺高血圧症が私の病名です。名前通り肺に血栓ができて詰まってしまう病気です。私はラッキーなことにこの珍しい病気を見つけて頂き、手術もして頂けました。手術の内容も以前と違い、今はフローラン治療をしてから手術という方法をとると聞いて、医学の進歩はずごいなあと思います。
私達の病気はなかなか発見できず、女性だと更年期とか、ただの息切れと言われて見過ごされてしまいがちです。専門の先生も少ないのが実情です。まだまだ患者さんが少ないですが、患者同志励ましあってがんばっております。Mさん
みなさん、こんにちは。
私の娘が先天性心疾患による二次性の肺動脈性肺高血圧症と分かったのは一年半前のこと、娘と一緒にツーリングした事がきっかけです。大した坂道でもないのに娘が私についてこれないのです。「なにかおかしい」と感じました。H.Nさん
「肺高血圧症ですね・・・現在、薬が開発されつつあるけれど、Kさんにはそれを使うことができない・・」2010年の春、主治医にそう告げられた。
2001年に急性肺血栓塞栓症を患った私は、その後9年間定期的この病院に毎月通っていた。
(え?何それ?私やっぱり病気だったの?)
横になると胸の違和感、坂道を普通に上がれない・・2001年の治療以降もそんな症状はあったけれど、9年間、心電図やレントゲンでは異常なし、診察時に症状を訴えると「更年期障害かな?苦しいときに来てよ、そのときに検査するから」。「肺塞栓症って昔から嫌な病気だよね・・真綿で首絞められるような・・」そんなとんちんかんな先生の言葉に憤りを感じながらも、検査では異常がないのだからと、血栓予防のワーファリンさえ服用していれば安心と私は、普通の社会生活を送っていた。今から思えば、海外で倒れたり・・あのとき危なかったな・・と思うことがたくさんあった。
「治療法はないので、在宅酸素療法を今日から始めてください。できるだけ安静にして。そうしないと命にかかわります。」その日のうちに業者さんが在宅酸素療法の装置を家へ運び入れ、ボンベも置いていった。
仕事・家庭・ボランティア・・酸素ボンベをしていたら、周りの人たちがびっくりする・・今までの生活が一変する・・一体どうなるの?不安でいっぱいになった私は部屋のカーテンを閉めてベッドに横たわった。2001年のあのときは、苦しさの原因がわかって集中治療室に運ばれてもなんだかホッとした。けれど今回は苦しさの原因がわかっても、治療方法がない?!と帰された。どんなに前向きに考えても、さすがに今回は心がどん底に沈んだ。
しかし、数時間後、私はネットで「肺高血圧症」を検索、ヒットするものを片っ端から読み漁っていた。あった!この人、イタリアで坂道登れなくて、病院運ばれて、誤診されて、日本に帰ってきてやっと専門医に巡り合い、今は命をつなぎ、薬で治療している!この方の先生は?と何かに押されるように新しいページへ、S先生の名前とメールアドレスにたどり着いた。
メールアドレスを公開している先生なのだから、ダメ元でも良い、病歴と今の症状、そして治療法がないと言われて途方にくれていると正直に綴ったメールを即送信。見も知らぬ私に返事が来るはずもない・・けれど送信のクリックした瞬間、ひとすじの光がみえたような気がした。
数時間後なんとS先生から返信メールが届いた。「この10年間で新薬が2・3種類出ています。紹介状を持っていらしてください。」(お返事が来た!それにお薬もあるの?すぐにアクションとるとても親切な先生!)
一か月後、私はS先生を受診。まずは丁寧な問診と触診で「そうですね、肺高血圧症のようですね。詳しい検査をしましょう。」既にこのとき私は助かるかな?の予感がしていた。
先生を信頼できるということはそれだけで元気をいただく。その後、私はたくさんの患者会へ足を運び、今どのような治療が行われているのかを勉強、肺高血圧症と言っても、いくつかの分類があって、自分の疾患のこともよくわかった。そして患者仲間の話に勇気が湧いた。PHの会を主催している重藤さんとの出会いはそう、あのネット検索で一番にたどり着いた人。その後、東日本大震災が重なり、停電の不安、酸素や薬に頼っていた私は内部疾患障害者として様々な思いを経験した。
S先生に辿り着いてからの4年間、慢性血栓塞栓性肺高血圧症(CTEPH)の治療に向けての医学の進歩はめざましく、その波にうまく乗れた私は、2012年にPTPA(経皮的肺動脈拡張術)というカテーテル治療を4回受けた。最後のPTPA治療から1年経ったころ、安定して楽になったのを実感した。
3か月前に肺高血圧症の薬の服用が終わり、そして先月は在宅酸素療法も終わった。今では、14年ぶりに、家の前の坂を息切れをほとんどしないで登れるようになった。夢のよう。毎月通う近くの専門医クリニックの主治医O先生もとても喜んでくださった。
専門医との出会いからたくさんの人たちに支えられての4年間は、多くを学び私を大きく成長させてくれた大切な時となった。今は、この経験を少しでも皆様のお役に立てればと思っている。
犬の散歩がしたい、駅から家まで徒歩で帰りたい。そんな夢が叶ったどころか、還暦の私はもう一度これから新しい人生を歩めるのかも?と少し図々しくなっている。